2010年09月25日

寺脇研氏発表

「新しい公共」についての概略と
PTAにかける期待・必要とされる国や自治体の支援案など

京都造形芸術大学教授・元文部科学省審議官
寺脇 研

 おはようございます。
 えぇ、あのぅ、岸さんみたいに早起きじゃないので、まだぼんやりしてますけれども、ていうのは昨日はですね、今日は或る程度こう大人の集まりなんですけど、昨日は高校3年生と新しい公共とは何かに関してやってましてですね。これからお話しする新しい公共って言うのは何しろ新しいことなもんですから、我々長いこと生きてきた人間は今までのことが頭にこびりついているんで、いろいろあるんですけど、高校生とか大学生とか昔の時代を知らない人たちは、あぁ、こういう風にやりゃぁいいんだなというんで大変まぁ関心が高まってということなんですね。

 で、あのぅまあこれから申し上げますけれども、新しい公共って言うのは、何ていうか、政府が何かをやるということでは無いんで、今日のこの集まりも今、発起人の成り立ちについて説明がありましたけれども、自分達で集まってやろうという事でやってんですね。で、そういうのが今全国各地でいろんな形で開かれてるんですけど、今日の集まりが発起人の4人の平均年齢が一番高いんじゃないかと思うくらいで、大体各地でやっているのは大学生とか20代の若者達が中心になってこういう風に考えてみようじゃないかというようなことをやっているっていうのが実状です。

 まぁ、私が最初ですから新しい公共とはそもそも何なのかと言うこと、今日お集まりの皆さんは或る程度はイメージを抱いてきていただいているとは思いますけれども、整理を先ずしてみたいと思います。あの、後ほどというか補強として見ていただきたいのは、今日の資料の12ページに新しい公共宣言というのが出てます。それを眺めつつ話を聴いていただいてと思っております。

 何でこんなことになっちゃったかというと、時系列で言うとですね昨年の8月の終わりに衆議院選挙で政権交代ということを我々国民は選んだ訳ですね。それは多分大方の方はなんか民主党が素晴らしいとか鳩山さんが素晴らしいからということよりも、何か、ともかく今までずうぅっと何十年間続いてきたことを一回きちっと見直して新しい視点でこれからの新しい時代に向かって行ったほうがいいんじゃないかと思ったってことが、大きかったんじゃないかと思います。

 その結果鳩山由紀夫総理大臣が生まれて、これからどういう風に新たな世界を作っていったらいいのかということについて9月の終わりでしたでしょうか、衆議院、ええと国会で政府の所信表明演説をした訳ですね。その中で初めて公式に新しい公共という言葉が使われました。

 つまり今までは、公共というのはなんとなく皆さんお分かりになるわけですね。まぁ、自分のこと、自分が幸せになるとか自分がちゃんと食っていけるとか、そういうことは自分のことだから自分で考えて自分にとっていいことっていうのはやるわけですけれども、自分以外の人にとっていいことというもの、つまり自分の事は自分でやるとしても自分以外の人で困っている人、自分では自力ではいろいろなことが出来ない人たち。子供であったりお年寄りであったり、障害を持った方々であったり、というような方々を含めた、この社会と言うものをどう考えるかと言うのが公共ということだと思うんです。

 従来はそれはまあ、基本的にお役所がやるんだよと、えぇ、子供が児童虐待にあってたらそれは児童相談所っていうところが何とかしてくれるでしょう。子供が勉強しようと思ったら学校というところが何とかしてくれるでしょう。病気になったら病院というところが何かしてくれるでしょう。お年寄りが困ってたら福祉、ケースワーカーみたいな人達が何かしてくれるんでしょう、ということで。公共のことはいわゆる公務員がカバーしてくれる。あとは自分たちのことは自分達が考えていればいいんだ、というのが基本だったと思うんですけれども。果たしてそれでいいのかということがあります。

 果たしてそれでいいのかという理由が2つあって、1つは、物理的な問題が先ずありますね。悲しい話ですけれど、全部公務員に任せてたんだけど、その公務員が仕事をする、つまり国の財政ですね。ええ、国の財政、あるいは地方自治体の財政というのが、最早破綻状態になっていて、国と地方合わせたら、1千兆円と言われる位の赤字を出してしまっているんで、もう今までのように国や地方公共団体に「全部何とかしてくれよ」ということが物理的に不可能になっているということが一つあります。

 まぁ、そういうあれじゃぁ何か悲しい話なんで、何か要するにお金が無いから仕方がないんで皆でやろうかでは情けないんで、もう一つポジティブな理由がある訳ですけれども。これまでの私達が生きてきた、日本でいうならば明治以来140年の歴史を持つ近代という時代があります。ここにいる全ての人は生まれた時から近代という世の中を、生きてきました。近代っていうのは基本的に何でも合理的にやりゃあいいじゃないかと。シロートが何かやるよりも専門家の公務員にやってもらったほうが良いんじゃないかみいたいな近代合理主義ということのなかでやってきた。つまりなんでもお金で解決する。お金で解決するっていうと悪いことみたいですけれど、きちんと納税するといのもお金で解決することである訳であって、お金で整理して行こうという考え方でやってきました。

 しかし、そういう生き方っていうのは、近代っていうのは世界的に近代っていうのは、右肩上がりで生活が良くなって来たり、社会が豊かになって来たりするプロセスであった訳で、その豊かになっていくプロセスを前提にして、近代という仕組みの中で我々は生きてきた訳ですけれども、どうやら、その右肩上がりで豊かな社会が続いていく、更に豊かになって行くということがもう終ろうとしているというか、もう終っちゃっているんですけどね。終っちゃっているっていうことがあるみたいなんですが。それが終っちゃったときに、じゃぁ私達は今までだったら、ああ、豊かになって良かったな今まで食べられないものが食べられるようになったとか、今までできないようなことが海外旅行なんてできないようなことができるようになった、ということに喜びをみいだして、幸せだなぁって思って生きて来た訳でしょうけれども、それ以外の新たな喜びということを考えていかなきゃ行けないんじゃないかということが出てきている。

 つまり生きる歓びっていうのがですね物質的に豊かになる喜び中心だったところから精神的っていうか気持ちの中で豊かなものになって行くという事ではないのか、ということなんですね。さっき私はこの新しい公共という考え方が若い人により支持されると言った理由というのは、若い人のほうが対応能力が有るとかいうこともあるでしょうけれども、もう一つの理由としてそういう風に、もう近代は終ったんだよっていうのは我々は自分に言い聞かせなければいけないんですね。あんなに調子良かった時代は終ったんだよと、過去はある程度終ったんだよっていうんですけれど、高校生大学生に言わせると、そんな時代僕達知りません、と。そんな豊かで右肩あがりで常に希望がなんか凄い坂の上には雲が在ってそこへ向かって駆け上がって行けばいいみたいな話って在りませんよと。もう生まれた時からデフレで100円ショップがあって、でそんな豊かでなんかどんどん自動車買って家建ててみたいな発想っていうのは、在りませんでしたよと、言われるとね、なるほどそうなのかと。

 実はこの10年20年の教育を巡る、後のお話に出て来るかもしれませんけれども、教育を巡る大人たちの迷走っていうのは、子供たちのそういう状態を見るに、大人たちがいや昔は良かったとかまた景気が良くなったらいいんだろうかとか世界の経済大国にもう一回なれないかなとかそういうことを考えていたギャップから生まれたことなのかもしれません。ま、そういうことを、今までは、今までの日本の政治っていうのは、とはいいながら「もう一回日本は豊かな国になりますよ」というような、メッセージを提案してきた訳ですけれども、成る程、これは政権交代した効果があった。総理大臣、日本の国のリーダーがもうねぇ、「兎に角時代は変わったんです。だから、今までのように所得倍増とか、そういうようなことを総理大臣が言う時代じゃありません。国民の皆さんみんなの力で私達の社会を助け合う社会にしていこうじゃないか。」

 まぁ、一言で言うならばその時、提案がなされたのは、近代という仕組みは終ったから、近代という仕組みにもたれかかるのは止めましょうと。じゃぁどうするのかというと、近代の前はどうしていたのかということを考えなければいけない。近代の前っていうことは明治時代よりも前ですね。明治時代よりも前には公務員なんていうものは居りません。税金を払うと言ったってそれは武士が税金をがっぱり取って行くだけの話であって、百姓から取り立てた年貢で、百姓の福祉制度を作るとかそういうことではないわけですね。持って行っちゃって武士の為にそれを使っているんで。税金を払ったからって、つまり税金ってあの頃は年貢です。年貢を納めたからって、それがサービスとしてバックしてくるなんていうことは無い訳です。

 じゃぁ、どうしていたかというと、自分たちでたすけあい、例えば今の年金制度なんていうのは、講…講って言うんですかね、講っていうのを作って、みんなでお金出し合って困った人があったら助かるようにして行きましょう。あるいは学校制度だって、政府が作ってくれる訳ではなくて「自分達で寺子屋っていうのを作って、やっていきましょう」というように自分達で力やお金を出し合って、やっていく。

 これ新しい公共のこれからお話します円卓会議が始まるときに最初の資料として配られたのが明治2年京都で番組小学校という学校が作られたときの話が配られた訳ですね。我々が大体関わっている学校っていうのは、明治政府が学制発布まさに近代学校制度っていうのは明治5年に始まる訳ですね。明治5年に学制を発布して日本中に小学校を作りましょうと言った、その3年前に京都では小学校が整備された。それはどういうふうにやったかというと、政府が関わっていない訳ですから京都市民がかまど基金と言って、かまどの数に応じてお金を出して、その出したお金で小学校を整備して行ったという。まあ、これが近代以前の仕組み。それを思いだそうじゃないかというのが一つ。

 あともちろん、江戸時代に戻ろうなんていう話では無い訳で、近代の仕組みの中から活用できるものはあるんだと。だから江戸時代に戻るんだから全ての公務員を首にしちゃって公務員無しの社会を作ろうと言う訳じゃない。だから公務員の力でやってもらえる部分というのは有ってもいいだろうと、今まで公務員が10分の10仕切っていたとするならば、公務員の仕切りの部分を例えば10分の5にして行って公務員がやった方がいいこと、というのが有りますよね、我々ではとてもできない、例えば、ピストルを持ってる犯人を追ってくださいよ、なんていうのはシロートではできない訳ですからこれは専門の技術を持った公務員にやってもらうというようなことは守っていきましょう。つまりいいとこ取りをしましょうということです。近代の制度で使えるやつは使っていく。だけど、それを一杯一杯になっている所についてもう一度自分たち自身がダイレクトに公共を担うという考え方を併用しながらやっていくということはできないだろうか、という考え方だった訳です。

 で、今年2010年の一月に総理大臣官邸に新しい公共円卓会議というものが設けられた。その円卓会議というものはですね、従来だったらですよ、総理大臣にしても文部大臣にしても諮問機関と思っている訳ですね。例えば中央教育審議会とか諮問機関で文部大臣が「教育について何かいい知恵を出してくれよ」って言われてその人たちが知恵を出して、大臣に報告書を出して、「こういうふうにやったらいいんじゃないですか」っていう形でやるのが今までの審議会様式。これを変えていこう。この円卓会議っていうのは総理大臣が丸投げしてなんか答えを出してくるんじゃなくて、総理大臣自身も会議のメンバとして皆と議論しましょうということで13ページの右上のところに外から集められた人々の名前。それからその下に一緒になって議論をした政治家、政府の職員の名前が並んでますけれども、これだけの数の人たちがみんな同じ立場で円卓つまり丸いテーブルに着いて議論をしていった、だから最終宣言というのも政府の宣言でもなければ政府に対して出す審議会の方針でもなくですね、このメンバ全員が署名をして私達はこういう議論をしました。その議論の結果を私達以外の人たちに呼びかけますという形式を採っている訳です。

 というのでこの新しい公共というのは言葉や概念が先行してその中で始まった。言葉や概念は取り敢えずわかったと。まあ何となくとにかく今までと違うやり方で公共を支えようというんだね、というんだけど、じゃあ具体的にどんなことが必要なんだろうか。国民の皆さんにはどういう事を考えてもらう呼び掛けをしたらいいんだろうか、お役所は今までのお役所の働き方と違う新しい働き方としてどのような働き方をして行く必要が有るんだろうか、ということを4ケ月余り議論した結果がここに出ているものだということなんです。

 まあ、いろんなことを議論をしていって、従来だったら全て公的なことでやって行くところにNPOとかボランティアというような人たちが入ってくる仕組みを考えていこうよ、なんていうところから話はスタートして行った訳ですけれども、そうやって議論していくとこりゃぁあらゆることが入っているんだな。

 昨日高校3年生の女の子と話してて「新しい公共って、私が電車でおばあちゃんに席を譲るっていうのも新しい公共なんですか」っていうから「やぁ、そうだよ、新しい公共っていうか公共だよね」っていう話をしました。自分が座席が空いているから座るっていうのは自分の為にやっている訳ですけれど、その座席をおばあちゃんに「どうぞ」っていうふうに譲る行為っていうのは公共の為におばあちゃんが座る、おばあちゃんが立ったまま電車に乗らないで済むっていう事を政府が仕切っているんじゃなくて、一高校生だって小学生だって、「おばあちゃんどうぞ」っていえばそれが出来ますよという話です。

 まぁ、それだけだったら別に新しくないよっていうことになるかもしれないけれども、彼女に私が説明したのは、今までだったら「子供や若い人はお年寄りに席を譲りなさい、譲るもんだ」っていうルールみたいなことを義務付けられていって、「ルールなんだからあなたそうしなさい」みたいなことを言った。そうじゃなくて、「私がこのおばあちゃんの為に、自分がおばあちゃんに何かを喜んでもらおうと思ってやることなんだよ、ということは、自分自身も嬉しいことなんだよ」、人に命じられて、「はいはい、子供は立って」って言われたらこれは嬉しいことじゃない訳ですけれども、自分が、「ああそうだね、おばあちゃん立っているの可哀想だね、変わってあげようね」って変わったら、おばあちゃんが「ありがとう」って言ってくれて「ありがとう」って言ってくれたら嬉しかったね、っていうその喜びを自分が持っていくことなんだ。

 つまり新しい公共だから国民は皆世の中の為に何かをする義務があるとかって言われたんじゃちょっと窮屈な社会になってくる、そうじゃなくて、世の中の為に何かをする歓びっていうものを、持って行こうじゃないかと。それが歓びとして感じられませんか、という提案なんですね。

 またそこら辺の所は午後のところでも議論していくとして、まあちょっと時間経過だけ言うならば、その会議が始まってすぐ、2週間ぐらい後でしたかね、1月の終わりにその会議が始まってすぐ2週間くらい後に、さっき田中さんから説明があった、NPO教育支援協会というところが文部科学省から委託を受けてPTA活動の現在というようなことを分析して議論するという場が2月の11日だったですかね、横浜で開かれました。

 私は教育支援協会のメンバーの1人でもあるんですね、その会に出かけていった。でもその時にはもう私は既に新しい公共ということについて、毎日考えている立場だったところですから、私の頭の中には新しい公共っていうのが渦巻きつつ、そのPTAの話に出て行った。となると、PTAの問題が今まではそういうことを思っていなかった、新しい公共っていうことを頭に置きながらPTAのことを議論するとどういうことになるんだろうか、ということで、まあ、PTAを実際にやってらっしゃる方々とか、或は学校の校長先生とか、文部科学省の行政官の皆さん方と一緒にそこで議論していると、まあ、何時間か議論した訳ですけれど。

 議論すればするほど、そうだよね、PTAっていうのはまさに、公共。考えてみたらPTAっていうのは、お役所がやってもらっている訳ではないわけですね。自分達で集まっている。だいたい今頃ならば、NPOとかなんとか言いますけれども、NPOという言葉は最近出てきたように言いますけれどもNPO法人という言葉自体は、この10年位のことですけれど、NPOという考え方自体は、昔からあるわけですね。江戸時代に村で寺子屋を作っていたというのは、今で言えばNPOでありNGOですね。当時のガバメント、政府っていうのは江戸幕府とか何とか藩のお殿様っていう人がやっていたわけでしょうけど、そういう人が作った訳じゃなくて、ノット・ガバメントの形で作っていたわけだから、江戸時代に大体いろんなことをやっていたのはだいたいNPO活動かNGO活動だったわけですね。今日でいうならば。とすれば、江戸時代でさえそうなんだから、60年余りの歴史を持つPTA活動というのもそれが出来た頃にはNPOなんていう発想は無かったけれども、今風に言えばNPOとして作られている。それが無かったから当時の考え方では公益法人。社団法人です。日本PTA全国協議会というのは社団法人ですよね。従来はそういった公共の事をやるっていうのは、お役所がやるか、公益法人がやるか、っていう事だった訳でしょう。
 今でもそうですね。公益性が強い順に言うならば、一番目にお役所です。二番目に強いのは準お役所である、まあ、このごろ事業仕分けで有名になった独立行政法人、この東京大学も独立行政法人ですから、昔は国立大学で国が運営していた訳ですけれど、ワンランク、ちょっと民に近くなって、独立行政法人と言っているけれど、これが国の次に独立行政法人。で、その次に公益性が高いのは、これまた事業仕分けされているわけですけれど、公益法人。

 今その独立行政法人とか公益法人に天下り以下いろいろなことがあったりとか、不明瞭なお金の動きや無駄遣いがあるんじゃないかという様なことが言われている、そういう部分がある。で、その国でも独立行政法人でも、あ、国っていうか国や地方公共団体っていう、まず公務員の世界。それから独立行政法人の世界。そして公益法人の世界でないもの、そして新しい公共というか、民間のいろんな活動があっていいんじゃないかということでやっている訳ですね。

 で、だから新しい公共円卓会議の中でも、古い頭の人は居ます。誰とは言いませんが、そういう方は「NPOなんかにやっぱりやらせるのはいけないんじゃないの。従来の公益法人とか、独立行政法人がやればいいんであって、せいぜいそのくらいでしょう。だから、社団法人とか財団法人とかいうようなところまでが、正面切って公共を担えるのであって、NPOもやるなとは言わないけれど、やるんだったら、まぁ、分を弁えてやりなさい」みたいな議論も出てきている。

 まあ、当然私や私と同じ考えの、まあ、そっちの方が多数派ですけれど、NPO活動している側には「とんでもないな」と。それをするんなら何で事業仕分けなんかやんなきゃいけないんですか、と。その、あなたが言う所の独立行政法人とか公益行政法人がでたらめなことをしているから、こんな風になっちゃっているんじゃないですか、っていったことを。

 だけどね、このことを何故私がわざわざ言うかっていうと、じゃぁ、PTAだって社団法人だからいいじゃないか。PTAは社団法人だからいいじゃないかって言うけど、それは昔、そういう制度しか無かったから社団法人だったんで、今、新たに全く無い所にPTAを作ろうとしたときに社団法人とか財団法人になろうと思うんですか。それ、普通NPOでやるっていうことじゃないんですか。だから、PTAは社団法人なんだから従来どおりのやり方でいいんだ、では無くって、こういう考え方になったときにもう一度考え直してみてもいいのではないのか。

 当然ですね、さっきから言っている行政機関・独立行政法人・公益法人・NPOっていう序列っていうのはですね、公益性が高そうに見えるということとは裏腹に拘束性が強いっていうことですね。やりたいときにやるっていう、そういうことじゃまずい訳です。公務員が働きたいときだけ働くっていうんじゃまずいんで、ちゃんと勤務時間きちんと働いて、嫌な仕事でもやんなきゃいけないという拘束性が、一番拘束性が高いのは公務員の世界。で、独立行政法人になると拘束性が少し緩くなるから、東京大学の先生は少しそんなに公務に縛られずに、自分の研究みたいなことに打ち込んだりしていてもいいよみたいなふうになる。で公益法人になるぞみたいなことを言っている。

 けれども、だけど公益法人とNPO法人を比べれば、明らかに公益法人の方がいろいろ縛りが掛かっていて、「こうしなきゃいけない、ああしなきゃいけない」みたいなことを作って行きますよね。例えばその時に、PTAで議論されたのは、PTAには必ず会長が居なければならないのか、みたいなことですね。で、これは、公益法人だったらやっぱり代表が居なければいけないので、必ず代表が居なければいけないですね。で、NPO法人、あ、御免なさい、NPOの中にもNPO法人と法人じゃないNPOが有りますね。で、NPO法人になるときはまたやっぱり認可を受けなきゃいけないですからだれが代表かっていうことをはっきりしなきゃいけない。でも、そうじゃない、ただ仲間内でやっているNPOだったら、別に代表が居なくたっていいじゃないか。或は代表が5人居て、その5人が代表それぞれですっていうことだって、いいんじゃないか。自由自在に作れる訳です。

 で、あの、あ、御免なさい、あ、御免、時間間違えてた、10時半までだったね、11時までだと。じゃぁ御免なさい。そういうことの中で、バトンタッチして、PTAの話になると、次のお二人がそういう中でPTAを、っていうそこの所の話を次は川端さんですね。あぁ、岸さんにバトンタッチして深めて行って貰えば良いんで。あぁ丁度いい所に時間出してくれた。ぼんやりしてた。あのう、あと30分しゃべっちゃう所でした。ええ、でも良かったです。丁度ここのところでPTAの話に移る所でしたんで、岸さんにバトンタッチしたいと思います。
≪拍手≫

フォーラム PTAは「新しい公共」を切り拓けるか(2010/08/07)
posted by pomo at 18:29| フォーラムの内容 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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