2010年08月26日

当サイトへ戴いたご寄稿

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考察:学校を拠点として展開する「新しい公共」について

学校を拠点として展開する「新しい公共」について(「市民参加」の視点から)PDFファイル
初出『年報 学社融合2010』学校と地域の融合教育研究会発行)を一部修正

宮本照嗣(千葉県印西市、市民参加まちづくりパートナー)

 私が「市民参加」という言葉に出会ったのは平成11年、市の総合計画策定に携わった時です。
 市民参加の経験は青少年相談員だけでしたから、市民参加を続ける人たちの気持ちや、力の源泉を確かめるために、いくつかの市民活動団体に一緒に参加して、新しい挑戦の立ち上げなどに加わって活動をしてきました。
 岸さんたちの呼びかけで8月7日に東大福武ホールで開かれたフォーラム『PTAは「新しい公共」を切り拓けるか?』は、市民参加の観点で大変興味のあるものだったのです。

「新しい公共」という言葉
 最初に登場したのは、平成14年6月に制定され、市民参加の世界で注目された「大和市新しい公共を創造する市民活動推進条例」です。その前文で『それぞれが所有する時間や知恵、資金、場所、情報などを出しあい、社会に開けば、それはみんなのもの「社会資源」になります。』『市民、市民団体、事業者そして行政が自らの権利と責任のもとに対等な立場で協働し、「新しい公共」を創造するための理念と制度を定めるものです。』と、市民参加における「協働」の理念を明確に打ち出しました。
 次に登場したのは平成16年版国民生活白書。冒頭、竹中大臣は、『自立の精神を持った住民の多様な活動が地域に活力をもたらしており、これらは現在進められている地域再生につながるものとして期待したいと思います。』『特定の問題に関心を持ち目的を共有する人々が自発的に活動し、対等な形で横のつながりを築くことにより、新しい形の「公共」が創り出されるのではないでしょうか。』と、課題に対処し地域を再生する新しいセクターとして期待しています。

日本の地域コミュニティ
 町内会は、敗戦とともに国家総動員の末端組織として解体され、共同募金、公民館、子供会、そして「父母と教職員の会」と、アメリカ流民主主義の移植が試みられました。
 赤痢の流行により各地で衛生組合が再結成され、サンフランシスコ講和条約以降、町内会は復活していきますが、戦時事務が無くなったほか、舗装、下水、街灯の普及につれて機能は縮小していきます。産業の急成長とともに、「マイホーム」に象徴される地域や大家族に縛られない個人主義が広がり、集団就職〜出稼ぎ〜核家族の都市移住に至る「新しい国家総動員」が進んで、日本列島は姿を変えました。
 東京への人口集中が落ち着きを見せ始めた昭和44年、『コミュニティ〜生活の場における人間性の回復〜』という国民生活審議会小委員会レポートが出て、政府はコミュニティ形成へ向けた事業を始めました。
 そのレポートでは、「人々の心のつながりによって維持される自主的な集団こそがコミュニティの姿であり、それが地域的なひろがりの範囲をも規定するものであろう。」と述べています。
 コミュニティという言葉は、commune「親しく交わる」+unity「まとまり」で出来ていますから、簡潔に核心を表す素晴らしい言葉と言えます。

学校と家庭・地域の間にある、おかしな関係

 こどもを人質に取られている

 生徒を罵倒する教員に沈黙
中学校で「部室前に『キャラメルの皮』があった」と教師が問題にし、旅行業者による修学旅行説明会を中止して、糾弾学年集会が開かれました。教師による生徒罵倒がひどかったことから、生徒、親の間に問題視する話が広がりました。「部活顧問が生徒にアメを配ることもある中で、人権問題とも言える教師の暴言は許せません。」と勢い込んで話すPTA会長は、「だけど、私は絶対に動きません、子どもが人質なので。」と沈黙を決めていました。

 体罰隠しの究明に「学越会」
近隣の市で「中学校で体罰が行われたが、プライバシーを楯にして一切事情説明等が拒否された。」と、「学越会」(学区を越えて考える会)という市民ネットワークが立ち上がりました。当該校の中学生を持つ親たちは直接動きにくいと感じ、いろいろな市民活動での知り合いに話を伝えた結果、他学区の人たちが学区を越えて情報公開を求める動きになったのです。

学校と保護者の間にある相互不信

「学校的価値観」という言葉が、学校の問題点を論じる保護者、教育専門家等の記述の中に見られます。その反対に、学校側から論じている文中には、「特別な考え方をお持ちの保護者」という言葉が見られます。いずれの言葉も、相容れない価値観を持つ相手として、近寄らないでおく意識が読み取れます。このような言葉で相手を規定し、コミュニケーションの外に置いていたのでは、こどもが元気に学べる教育環境を整えることはできないでしょう。

対峙からの脱却
いじめ、虐待などでは、被害者に同情が集まり加害者は敵視され、対応組織の権限強化が論じられます。問題発生時の対応としては、組織の権限強化は不可避でしょう。
しかし、イギリスの学校で、こどもがカウンセラーになって対処する教育プログラムを行ったところ、こどもたちが「いじめている子が、ほかの友達や家族とトラブルを抱えている」場合があることに気づきました(NHKTV)。加害側は、家庭や社会で孤立するなどトラブルを抱えている場合が多く、問題の解決には、トラブルを抱えているこども、親に対する支援、救済が必要です。
でも、支援を受ける気持ちになってもらうのが一番の課題。「新しい公共」を目標に地域の人たちの日常的な交流の機会が増えることで、他人との触れ合いが苦でない地域、本当のコミュニティに変わっていくことが、一番大切なことだと思います。

 学校、親、地域、相互の信頼構築
学社協同の非常に分かりやすい成功事例があります。岩手県紫波町で、社会教育サイドが事務局を引き受け、町一番の荒廃校で市民が先生となって、三味線演奏、和服試着などの体験型授業を行ったところ、生徒が落ち着きと明るさを取り戻して学校が復活したそうです。市民の愛情ある指導で、「出来る体験」ができた事はもちろんですが、知らない間に生徒の中に芽生えていた地域社会からの疎外感が、地域への信頼感に変わったことも大きいと思います。
「熟議」でも、「懇談」でも、「バーベキュー」でも良いですから、学校、親、地域が、お互いに顔の見える関係を構築して、こどもの成長のために協力し合える基盤=相互の信頼関係を確立することを、活動の基本に据えてほしいと思います。

 学校とPTAの改革
 PTAは、学校と保護者が相互理解を深めることにより、こどもの教育環境を整える組織のはずですが、校長、教頭だけの対応となり、本来の目的の先生と保護者の相互理解とはかけ離れてしまったほか、昼間自宅にいる人が減少した事もあって、いろいろな事業をこなすのに精いっぱいのケースが少なくない様子です。

『事業仕訳』が社会をにぎわし、業務というものが年を経るにつれて増加し、肥大化することは、周知のことになりました。PTAの事業は、熱い善意により創造され継続されてきたものがいっぱいあります。学校も、先生が生徒に接する時間が十分とれないほど、管理的な事務が増えていると聞きます。どちらも、一度始まったことは当然のこととして継続されがちですが、「新しい公共」を良い機会に、本旨に立ち返るために思い切った見直しを期待します。

PTAは学校、保護者、地域が相互理解を深め協力していく基礎固めに徹し、サービス提供は自発的集団に委ねる方が、自由で多様な活動を生み出すのに適しているかもしれません。その場合、前述のおかしな拘束性を生じないためには、PTCAの方が適しているでしょう。

「教師は、学校に付属するクラブの指導でなく、自分の住まいのある地域でクラブに参加したほうが良い」と、ずいぶん前に千葉大学教育学部教授OB(確か、飯田稔氏)が言われていましたが、先生自身が居住地で「C」になってしまう名案だと思います。

市民活動の価値を損なわずに、協働の効果を高めるために
 融合研のメンバーが活動している地域は、行政、学校と市民の壁が低くなりつつあります。
 しかし、先日のフォーラムでPTA代表さえも相手としない教育委員会の事例が紹介されていたように、一般には、市民参加条例などが整備された自治体でも、「一緒に前に進もうよ」と言いながら、行政が同じ方向を向いて行動することは稀で、対峙する姿勢を崩さない傾向があります。
 この場合、行政側が市民団体を、行政サービスを補完する「サービス提供主体」として捉えて、協働事業実施に際して、活動内容を行政側の論理で細かく規定しようとしがちです。「行政と市民団体が対等な契約関係を結ぶのであるから、詳細に規定すべきだ」と論じているNPOもありますが、市民活動が持つ創造的価値を考えると、大変もったいない方法だと思います。
 市民活動の「多様性」は、それぞれが独自の感覚で使命(ミッション)を認識し、独自の活動を創り出すことによって生じます。言い換えれば、それぞれの団体が、それぞれ新しい価値とスタイルを創造しているのです。市民活動が社会の変化に、柔軟で多様な対応を見せることができるのは、このためなのです。
 市民活動の価値、可能性を損なわずに市民参加を推し進め、協働社会を創り出していくのに適するスタイルに、先ず市民が活動を創り出し、市民活動で不足する部分を行政が補完するスタイルがあります。ミュンヘン市では市民団体がユニークで価値が高い数々の活動を生み出してきた歴史があり、同市のこども施策は、このスタイルの「補完原理」で構築されています。
 この方法では、市民の創造力、熱意を最大限活かすことができ、秋津コミュニティで実感されるように、コミュニケーション不足、自己肯定感不足といった、社会的な問題を生じさせる根源を、市民活動が緩和、解消し、問題対応型の行政サービスの発生を低減する効果を生じます。

共に学び、共に歩むスタイルへ
(市民参加に関する研修)
市民参加を進めていく上で不可解なのは、職員研修と市民向けの講習が別個に開かれるという事です。理念、歴史背景、現況認識、施策内容などに関する研修は、職員と市民が一緒に学び、気づくことができるもので、これらの内容を一緒に学びあい、論じ合う中で、相互の理解と信頼が生まれます。「市民と目の高さを合わせる」ように努力する職員もいますが、「気づき」を共にすれば、「市民と目の輝きを合わせる」事が出来るのです
千葉県では特別支援教育に関して、NPO主催で行政と教育現場、保護者が一緒に学びあい、その場で質疑を交わす研究会が毎月開かれており、こどもと親に対する支援の円滑化と教師側の理解の深化に役立っています。(MDエコネット「ノーマライゼーション学校支援事業」)

市民参加が持つ可能性
市民参加が推奨されながら、行政サービスを補完するサービス提供者としての従属的参加にとどまりがちな背景には、行政職員が市民参加の価値、可能性に気が付いていない事があります。

市民は専門家の集まり
「人口減少社会で国立市が生き残るためには、どのようなまちにすればよいか?みんなで考えましょう」と市が呼び掛けたところ、100人を超える市民が集まりました。大学教授、研究機関の研究員など、専門家がたくさん含まれていたそうです。これなら行政職員も市民に期待を持てそうですね。ところで、行政が頼りにしている先生や専門家はどこに住んでいるのでしょう?
 そうです、みんな市民なのです。こんな簡単な事実に気が付かない職員がいっぱいいます。
 そしてもう一つ、地域の問題、人、団体、歴史、資源などに一番詳しいのは、その場所の市民。一人ひとり知っている事、対応できることが異なりますから、市民は一人ひとりが掛けがえのない専門家なのです。

最高のものを創り出す力
秋津コミュニティで汐見先生が紹介された話です。イタリアのレッジョエミーリアという町で、大戦後、「2度とムッソリーニのような人に従わないためには教育が大切。この町の教育について自分たちで勉強しよう!」と立ち上がった人たちがいました。この人たちは教育について勉強を始め、長年かけて、こどもの可能性を伸ばす教育を創り上げました。その教育が注目され、世界から教育研究者が訪れる町になったそうです。
市民は、世界で最高のものを創り出す力を持っているのです

市民参加のもう一つの側面=社会における自己表現
病気ではないかと思うほど血の気が無い顔色で、しわが目立ち、水気の無い肌の方と話をする機会がありました。「地震がおきたときに役に立つ情報システムを作りたいと、ずーっと前から考えていたんです。今度、社長になるので、それをやろうと思うのですが・・・。」と小さな声でおっしゃるのです。救援物資の情報処理とか、離れ離れになった家族の連絡とか、いろいろ考えられますから、「すばらしいですね、ぜひやりましょう。お手伝いさせてください。」と話をしていたとき、私は目の前で特撮映画を見ている思いがしました。ほんの10分ほどの間で『社長さん』の表情が明るくなっただけでなく、顔に血の気がさし始め、肌に水気が出てきたからです。
心の中に押し殺していた「社会貢献したい!」という願望が、「すばらしいですね」の一言で解放された、ただそれだけのことで、奇跡的な変容を目の当たりにしたのです。

まちづくり系市民参加の基本形は、家の周りをきれいに整えて見せること。これが広がると、建築協定や地区計画になっていきます。これは装うこと、すなわち社会の中での自己表現だと思うのです。地域の中で心が通じ合い、人や自然を我が事のように感じて(=commune)活動すると、活動している人が生き生きしてくるのは社会的動物としての人間の本性が解放されるからではないかと思います。

市民参加拡大には、しっかりした国家政策が必要

参加者側からみると、市民参加は個人の生活時間の中に社会的生活時間を持ち込むこと。
生活時間について、日本人は特殊な環境に置かれていることを認識する必要があります。
帰宅が6時以降で、大半の人は8時以降であり、帰宅後に社会的生活時間がとりにくいこと
(レッジョエミーリアでは、夜8時を過ぎに市民が集まって会議が始まったそうです)
日曜営業が一般化していること(キリスト教国では、少数の例外的都市に限られます)
コンビニなど、終夜営業が増えていること(時間差で、家族が切り裂かれています)
健康で文化的生活を送れる生活時間を取り戻すことが、基本だと思います。

また、市民参加(ボランティア)が盛んな国は、それぞれ相当の施策を継続しています
アメリカ:連邦政府が直接または間接に委託や補助を出す仕組みがあり(*1)
寄付控除も確立している(個人50%(遺贈は30%)、法人10%の所得控除)(*2)
ドイツ :16〜27歳の若者が、6〜12か月、社会福祉施設で働く。(*3)
(ほとんど女性、毎年1万人超、宿泊場所、食事、小遣い、公的年金の掛け金支給)兵役拒否の男子は、15か月間社会福祉活動に従事する。18万人以上が参加(*3)
寄付控除も確立している(*4)
イギリス :寄付も課税されますが、3年以上継続すると相手団体に還付されます。(*4)
フランス :国から地方へ事務が移された際、担い手となる団体を国が強力に育成し、補助、助成金制度も整備しました。(*3)
出典:*1 日本NPO資料ネットワーク柏木宏理事長
*2 財務省財務総合政策研究所「フィナンシャル・レビュー」October−2002
*3 平成12年版国民生活白書(原典は社会福祉・医療事業団「平成11年度 海外の民間ボランティア活動に関する調査研究報告書」)
*4 1999.3.(財)あしたの日本を創る協会「NPOに関する調査報告書」

さいごに
コミューンとは、人に向けられれば思いやり、自然や事物に向けられれば愛護、総じて愛情です。
その人の周りの環境(人、自然、物、文化、社会、歴史)と親しみを持って接することまで拡げて考えると、教育はコミューン能力を育てること。@人間存在の安定性(自己肯定、自己尊重)が保たれ、A社会的存在としての基盤(コミュニケーション能力、多様なものを受け止める力)が形成されて初めて、B一人一人の幸せを、みんなの知恵と努力で実現する意欲が生まれます。そうです、教育とは「市民参加まちづくりパートナー」を育てることなのです!?

「新しい公共」参考資料

T 『コミュニティ〜生活の場における人間性の回復〜』
(国民生活審議会調査部会コミュニティ問題小委員会報告、S44)
 「高度産業社会における緊張の多い非人間的な激しい競争と、ますます高まる技術革新にさらされる人々の、人間性を回復する場に対する欲求は格段に大きなものとなるであろう。」と時代を予見し、「生活の場において、市民としての自主性と責任を自覚した個人および家庭を構成主体として、地域性と各種の共通目標をもった、開放的でしかも構成員相互に信頼感のある集団を、われわれはコミュニティと呼ぶことにしよう。」と提起。
 「コミュニティを形成する根底は生活の場における地域住民の相互信頼である人々の心のつながりによって維持される自主的な集団こそがコミュニティの姿であり、それが地域的なひろがりの範囲をも規定するものであろう。」「コミュニティは古い要求自治的な意識を払拭し、正しい地域の自主的責任体制に基づく主張の場となり、今日のわれわれの日常生活のより所となって、現代文明社会における人間性回復のとりでとしての機能を確立しなければならないのである。」と述べた。(宮本抜粋)

T´ 阪神大震災で注目された神戸市長田区真野地区のコミュニティ力
震災時に住民総出で救助活動を行って注目された長田区真野地区は、公害反対運動が盛んだった地区で、「真野地区まちづくり協定」(昭和57年11月神戸市公告第264号)、「真野地区 地区計画」(昭和57年11月神戸市告示第130号)を締結していました。

U 大和市新しい公共を創造する市民活動推進条例 前文(H14.6.)
 一人ひとりの暮しの中には、「私」だけの問題からみんなの問題へと、「公共」の領域へ拡ひろがっていくものがあります。そのような問題を、私たちは長い間、行政だけに委ゆだねてきました。その反省から、この1 0 数年、福祉や環境、教育、国際交流など「公共」の領域に参加する市民や市民団体が急速に増えてきました。事業者も、地域に役立つ活動や市民との連携に目を向け始めています。
 行政により担われていた「公共」に、市民や市民団体、そして事業者も参加する時代が来ています。「私」を大切にするために様々な選択肢があることが普通のことになってきました。
 このように、多様な価値観に基づいて創出され、共に担う「公共」を、私たちは「新しい公共」と呼びます。
 市民、市民団体、事業者それぞれが所有する時間や知恵、資金、場所、情報などを出しあい、社会に開けば、それはみんなのもの「社会資源」になります。行政も自ら資源を開き、「社会資源」の形成に参加することが求められます。市民、市民団体、事業者にとって、「社会資源」は「新しい公共」に参加する活動の源であり、未来を生み出す糧となるのです。
 この条例は、市民、市民団体、事業者そして行政が自らの権利と責任のもとに対等な立場で協働し、「新しい公共」を創造するための理念と制度を定めるものです。
 私たちはこの条例による制度を活用し、多くの市民、市民団体、事業者の参加により、一人ひとりの「私」を大切にしながら、共に育ちあえる、みんなが共生するまち大和市を実現していきます。

V 平成16年版国民生活白書 刊行に当たって 竹中平蔵
 私たちの暮らしの多様化したニーズを満たすためには、暮らしを取り巻く地域の位置付けを改めて考え直す必要があるのではないでしょうか。
 問題意識を強く持っている住民によって、個人や地方公共団体では対応が難しくなっている暮らしのニーズにきめ細かく対応する活動が全国各地で広まっています。例えば、介護や子育てなど家庭内で解決できない問題があれば地域ぐるみで支援したり、防犯や防災に住民が結束して取り組んだり、魅力あるまちづくりに向けて住民が主役となって活動が行われています。また、「構造改革特区」などにおいても、自立の精神を持った住民の多様な活動が地域に活力をもたらしており、これらは現在進められている地域再生につながるものとして期待したいと思います。
 活動の受け皿としては、地縁に基づく組織などのほか特定の目的の下で有志が集まる組織など様々なものがあります。特に、特定非営利活動促進法(NPO法)が1998年に施行されて以降、NPO法人は急速に増え、多くのユニークな活動を繰り広げています。また、そうした組織が地方公共団体や企業などと協力(協働)して地域の様々な課題に取り組む活動も広まりつつあります。
 このように、特定の問題に関心を持ち目的を共有する人々が自発的に活動し、対等な形で横のつながりを築くことにより、新しい形の「公共」が創り出されるのではないでしょうか。
 本年の国民生活白書では、以上のような認識に基づき、「人のつながりが変える暮らしと地域─新しい『公共』への道」という副題の下、地域における住民の活動に焦点を当て、草の根の活動事例から始まり、その意義や活動を支えるものを考察しました。

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